嫁さんが妊娠した
正直子供が欲しいとは思っていなかった。 ただそれと同じくらい子供は要らないとも思っていなかった。
ちょっと言い方は悪いが、子供は贅沢品だと思っていたのかもしれない。 いつかは欲しい。機会があれば触れてみたい。 でもそれが存在しなくても僕らは楽しく生きていける。そう思っていた。
彼女は数年前に病で子宮の半分以上を摘出している。予後もあまりよくない。 なので僕の親には孫を期待しないようにと婚前に説明していた。
養子を貰う事について考えたこともあった。 でもそれは簡単な話ではなかったし 「このまま二人で年老いていくのも悪くない」という気持ちもあった。 だからこそ彼女や周囲の人々は妊娠の知らせを聞いて一様に喜んだ。
そのうえ彼女は高齢出産と呼ばれる年齢に足を踏み入れており、 周りの人々は「最近は大丈夫だよ」なんて言ってくれるのだけれど、 彼女のつわりがどうも酷い方だと知って僕は狼狽えている。
だからということもないのだが、僕は家事全般を行うようになった。 以前から家事が嫌いではなかったので作業自体に問題はない。 そして素直に感謝されると単純に嬉しい。 でも全てをこなしながら働くのは時間的に大変だ。
しかし今は卵を温める鳥の様に、少し膨らんだお腹に手を当てて微笑んでいる彼女を見るだけで穏やかな気持ちになる。
だから希望的観測で言えば、きっと僕らは彼女の体に訪れる変化に
一喜一憂しながら、このまま仲良く暮らしていけると思う。
それはささやかだけど、とても素敵な毎日なのだろう。
彼女は大変だろうけど。
彼女が妊娠をしたと聞いて一番最初に思ったこと。
それは「もし僕が死んでも、彼女を一人にしないですむ」だった。
今現在、僕が死と直面している訳ではないのだが、年齢を重ね彼女と暮らすうちに自然と自分の死後について考えるようになった。
誰かの死というものは、路地裏やビルの谷間を駆ける猫のように不意に現れては消えていく。 ふと視線が交差したときに、互いの形を見つめあうのだ。
今パソコンと向かい合ってる僕も、夕方には白骨になれる身。残された人々が哀れと嘆き悲しんでも、それはどうすることも出来ない。死を前に人はあまりにも無力だ。
だからこそきっと僕は子供が産まれてきてくれたときに、心の底から彼女やその子に対して「ありがとう」と口にするのだろう。
「お母さんを頼むよ」と。
だからこそ母子共に健康であれと願う。そして僕は出来るだけ長く、彼女とその子の人生を見守っていきたい。
これは彼女とその子に宛てた手紙である。しかし他の誰かに宛てた手紙でもある。誰かがいつか思い悩んだ時に、ネットの片隅に転がっているこの文章と出会い、これは「私・僕」に宛てられた手紙なんだと思って欲しい。
きっと君が覚えてないだけで、誰もが1度は愛されている。